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幸若舞の創始者「桃井直詮」の記念碑

2020/08/15 08:25:22 | 幸若音曲発祥の碑 | コメント:0件

幸若音曲発祥の地記念碑
2020.08.04

福井県越前町にある「幸若音曲発祥の地記念碑」です。

sachiwaka-asahi-003.jpg

室町中期から戦国期、江戸初期に流行した太鼓や小鼓に合わせて謡い、立烏帽子姿で舞う舞曲があり、それを「幸若舞(こうわかまい)」といいました。

一番分かりやすいのが、織田信長の謡い舞うあのシーン、「敦盛」の一節です。

「人間五十年、化天(下天)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を受け滅せぬ者の有るべきか」

のアレです。
時代劇などで見慣れているシーンですね。

なんとこの「敦盛」が、幸若舞(こうわかまい)の代表作の一つなんだそうです。
幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の足利直義派の武将で越中国守護「桃井直常」の孫(または曾孫)の「桃井直詮」で、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされています。

桃井直詮は、応永年間(1394~1428)末ころ丹生郡法泉寺村に生まれ、幼くして父が没したため、比叡山に上がり修行、そこで容姿、音声ともにすぐれていたため、音曲で 評判を得ました。
また参内して後小松上皇に舞を披露、さらに後花園天皇からは「幸若舞太夫」の称号を受け評価を高めたとされています。
幸若は勅命により、禁裏より賜った草紙36冊に節をつけましたが、この36曲(長中短の分類で各12曲)が幸若家の曲本となったのだとか。

やがて足利将軍義政の知遇を得、故郷の越前に所領を得て(旧朝日町)の西田中地区に移住します。
こうして「幸若」という一座を開き、「幸若家」を起こしたものが、越前幸若流、あるいは幸若の正統などと呼ばれています。

幸若一族は、直詮の長女の入婿の系統である幸若弥次郎家、長男の系統である幸若八郎九郎家、長男の分家の系統である幸若小八郎家の3家ありました。

越前幸若一族の館は西田中地区の一角に相互に隣接して在り、現在の商工会館から西側、公園、社会福祉センターの一角及び道路を挟んでの反対側がその敷地跡にあたります。
残念ですが、現在館跡を偲ぶものは何も残されていません。

sachiwaka-asahi-005.jpg

館跡に隣接して「幸若音曲発祥の地」の碑が建立されているだけです。

sachiwaka-asahi-002.jpg

また、小八郎家からはさらに敦賀に幸若五郎衛門家が分立しています。
敦賀の分家は若狭街道沿いの三島町に館を構え、その跡に築山泉水式の幸若遺跡庭園が遺されています。

さて、幸舞舞の隆盛期は、戦国安土桃山時代で、織田信長、豊臣秀吉らから知行等を受けています。
徳川家康が幕府を開くと、300石で召し抱えられ、3家が、3番交代制で務めていたほどです。
幕末までは、俸禄に遇されていましたが、江戸幕府崩壊と共に禄が途絶えると次々と廃業に追い込まれ「幻の芸」となってしまいました。

しかし、越前幸若舞を偲べる芸能が、唯一現在も残っていました。

初代幸若の子弥次郎の弟子に山本四郎左衛門という人がおり、幸若舞の一流である「大頭流」をたてました。
その弟子の百足屋善兵衛の、そのまた弟子(つまり山本四郎左衛門の孫弟子)の大沢次助幸次という人が、天正10年(1582年)九州に渡りこの舞を伝えたといわれています。
今では、福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存しています。



幸若音曲発祥の地記念碑
(こうわかおんきょく)
福井県丹生郡越前町西田中8-20-1

越前町観光連盟
福井県丹生郡越前町厨71-335-1
0778-37-1234




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